日本二分脊椎・水頭症研究振興財団

 

財団ニュースB&C 7-4 7-5合併号(2000年12月9日発行号)より
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 偶数月9日発行予定

 

 



『生きています26歳』


山本順子


 この物語は、平成12年5月3日の深夜2時、息子の「頭が痛い」の一言から始まった。顔色は真っ青である。彼は二分脊椎と水頭症を抱えており、私たち夫婦はどこの病院に行けばいいのか迷った。
 息子のシャントは、20年前、鹿児島で手術をしてもらったものである。そのときの先生は80歳を超え現役を退かれていらっしゃるのだ。そのとき息子に入れてもらったシャントは、26歳になった今まで順調そのものだった。彼は車を運転して市役所に勤務し、水頭症を忘れ、歩行障害や膀胱直腸障害もさらりと流しながら青春を謳歌していたのだ。
 ゴ−ルデンウィ−クの真夜中であったが、運よく脳外科医が当直でいらっしゃった総合病院に入院できた。即、検査をしたが、脳圧の上昇、脳脊髄膜炎、尿路感染、そのどれでもなかった。息子は、音、光、臭いを極端に嫌い、激烈に痛む頭の置き場がなかった。痛み止めの服用間隔を待つ時間は長く、夜の1時間は1日にも思えた。検査と治療を続けても痛みは治らなかった。息子は、食事もできないのに横を向くと吐いた。
 状態は、2週間ほどでさらに落ちた。仙骨部にできた蓐瘡が刻々と広がっていく。 私は、たまりかねて担当医に「かわいそうで見ていられない。息子に説明してほしい」と頼んだ。医師は、誠意をもって説明してくださった。
 入院後、1ヶ月が過ぎたむし暑い夜のことであった。無呼吸発作から覚めた息子は「今、とても恐ろしい夢を見た」と話す。内容は残酷極まりなかった。私は、鹿児島の病院に行こう、と言った。息子は「鹿児島まで行く体力がない」と返した。続けて「もう医療はたくさんだ。いいから家に帰る。これ以上頑張れない」と気持ちを吐露した。私は、息子の頭を幼子のようにやさしくなでた。そして、彼が寝息を立て始めるのを待ち、トイレで水を流しながら慟哭した。その後、手洗い場で長かった髪の毛を左手で束ね、右手で一気に切り落とした。鏡の中の私は、やつれて醜くかった。
 その翌日、夫の迎えで息子の希望どおり退院できた。自宅で過ごす日々は穏やかだった。しかし、その陰で息子の病状は、無呼吸発作の増大に加え視力にも変調をきたして、不気味だった。
 こんなとき、医療における治療実績の公開があれば、患者や家族はどんなに助かることだろうと考えた。
 そんな折、二分脊椎症協会宮崎支部の会長さんから、日本二分脊椎・水頭症研究振興財団を紹介してもらえた。それは、同じ病を持つ子供の母親として、実に温かくスピ−ディ−だった。財団の親切な指示通り、MRIなどの資料を送り、ご紹介いただいた医師の電話を待った。先生は「患者さんを診ていないので何とも言えないが」と前置きされ「視力の件は、のんきな状況ではない。水頭症の進行と考えてよい。このままでは意識が低下する。しかし、患者さんご本人の気持ちが最優先です」と言われた。数回に及ぶ電話の内容を息子に話すたび、彼の凍りついた心が次第に溶けていった。私も、座して待つよりこの先生にすべてを賭けてみたい、という気持ちが突き上げた。早速、宮崎の担当医師に相談したところ快く、息子についての情報を、神戸の医師に引き継いでくださった。
 こうして、7月の末、私たち親子3人は、勇気を出して神戸の病院へと向った。先生の診察は、几帳面に情報を集められ総合的に深い洞察の後、思い切った決断を、息子の心を推し量りながらの説明だった。結局、脳圧が上がっていたのだ。シャントの手術をしても痛みが止まらなければ、キアリ−の手術をすることに決まる。患者さんを早く楽にしてあげたいからと、手術は入院の翌々日となった。
 手術は恐かった。しかし、息子は元気になるためなら何でも我慢する、と覚悟を決めたようだ。手術自体の痛みが治まると、彼はその感想を「痛かった虫歯を抜いたみたいだ」と表現した。調子づいて「シャント一発、リポビタンD!!」とポーズをとり声をたてて笑った。息子の笑い方ってこんなだったなあ、と思い出した。私たちは、それまでの寝不足をまとめて取り返すかのように安心してよく眠った。
 8月10日、私たちは軽快退院を許され、宮崎に帰る飛行機に乗り込んだ。神戸の空は澄みわたり太陽も山も空気も輝いていた。私は、あと少しで会える家族の喜ぶ顔を思い浮かべた。山本守、26歳。生きている。イマイキテイル。私は天地万物に感謝した。
 それからそれから、筋書きのないこの物語は息子の命の限り−つづく−。

 

***編者より***
 山本さんは、現在、福祉施設に勤務されている。「息子がお世話になっているその 一部でも返せるものならばそして息子の仲間のために尽力できることがあれば」という思いからだそうだ。
 また、同居されている守さんのお祖父様お祖母様は、丹精こめて植えられたさつま 芋の畑を保育園や整肢学園、親のいない施設の子どもたちに無料で開放されている。収穫の時期にはたくさんの子どもたちが、バスに乗って芋掘りにやってくる。その小さなお客さんたちの数は今ではもう数千人にのぼる。
 今回、守さんにとって生まれてはじめて旅する神戸は、手術のためのものとなった。激しい頭痛と吐き気のため身体を起こすことさえ困難な状態である。飛行機に乗ることは死にものぐるい、のはずだった。
 ところが、守さんの病室のテーブルには「神戸るるぶ」(観光案内の雑誌)がある…ずいぶん妙な取り合わせだなあと思っていると、「退院のときには、神戸を観光できるくらい元気になりたいと思って宮崎から持ってきました」と、守さん。「神戸るるぶ」は彼のちょっとしたお守りだったのかもしれない。
 守さんは、今、また元気になって職場へ復帰された。守さんを見守るご両親やご家族は今年もご自慢の芋畑にたくさんのお客さんを迎えられる。
 「拾った命だから、大切にしないと…」守さんの呟きが記憶に残る。
 次回は「神戸るるぶ」をもって観光でご来神いただきたい。

 

 

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